がらくた

Twitterがない時代のテキストサイトに憧れがあり、これは記事形式ではなく日記形式で文章を書くほうが自分の性には合うってことだと思います。ともかくこの記事は今まで下書き状態にしたまま放置した文章も混ぜたものだということは初めに説明しておきます。順番もあえてめちゃくちゃにしています。

 

とあるSF評論家が半年ほど前に某カメSF作家に突っかかった事件があり、ここで目についた口の汚さからその評論家は僕のブラックリストに入っているのですが、ここ最近、その評論家に対する好意的な評判を見かけ、確かに人格的に問題はあるかもしれないし論理的に雑なところはある気がするもののSF評論の主張自体は正当なものだったのではないかとトゥギャッターまとめを見ていたらそのひどさを再確認できました。おそらく評論を軽んじないでほしいというしごく当たり前のことを言いたいのでしょうけどその程度の主張が正しいからと言って特に意味もなく、思い出の中で評論家を美化していたことに気がつきました。

 

とてもむかむかしているんですがそれを理屈で説明できる気がしないし言葉にする必要もいまいち感じられないのでそのまま放置します。普段感じる怒りは外部の事象に対する好き嫌いから生じるのですが、今回は自分も含めた状況を作った人間に対する怒りで、怒りとしてはむしろ健全なものだという印象があります。怒ってないと悲しくなってしまうので怒りを持続させているのでは、とも思いますが。ここで「言葉にならぬ哀しみよ」という言葉が浮かぶのですがこれは桑田佳祐の「夏の日の少年」という曲の歌詞でして、最近は「Do you know how many tears I have cried? No,no,no.」とよく脳内で歌っているのですが、この曲は芸能IQの高い桑田自身の苦悩を歌っていると思われます。同様の苦悩は「DIRTY OLD MAN 〜さらば夏よ〜」でも歌われていますが、こういう曲があるのに素知らぬ顔で「壮年JUMP」とか歌っているのを見ると歯がゆくなります。

 

涼宮ハルヒの驚愕』初回限定版特製小冊子「涼宮ハルヒの秘話」には谷川流書き下ろしの短編「Rainy Day」が収録されています。キョンがまだ中学三年生の頃のお話で、梅雨の時期に佐々木という同級生女子と学校のプールで会話したり、塾に行く途中に雨に降られてびしょ濡れになった、という思い出をキョンが回想するという体裁の短編。まあエモいです。で、梅雨の時期に読めなかったので読み返したのですが、

 

「あ。佐々木お姉ちゃん。遊びに来てくれたのーぉ?」

「残念ながら」と言いつつ佐々木は楽しげに微笑み、「学校が終わってもまだこれから勉強だよ。いつかまともな遊びをしてあげたいところですね」

「ふぅん」

 

という、キョンの妹と佐々木の会話の部分を読み、自分はこの「いつかまともな遊びをしてあげたいところですね」という言い方に強く影響されていたことに気がつきました。「いつかまともな遊びをしてあげたいところだね」なら解るのですが、「ですね」となると誰へ向けた言葉なのか解らなくなる。その違和感が面白い。

 

どこの馬の骨かもわからない人間の浅はかな発言が炎上すること自体はまあ他人事なのでいいにしても、そこから何故建設的でない議論が発生するのかが全く理解できない。その発言に注意を払う必要を感じない。その発言に何かしらの真実が含まれていたとしても、あえて反論する価値もないだろうに、周囲の人間は積極的に似たり寄ったりのコメントをする。放っておけばいいのに、どうしてだろう。ところで僕は自身に対して納得のいかないコメントをされると根に持つタイプなのですが、その人のその時の主張と、昨今のネット議論での発言との間に矛盾を見つけると、猛烈に指摘したくなります。この感情の行き場がない。どうすればいいんだろう。

 

こんなに何もできない夏休みになるとは思いませんでした。出来事自体はたくさんあって、思い出に残るかどうかという観点からみれば確実に残るだろうし客観的には充実しているとも言えそうですが、その事実を言い訳にして能動的な行動にまったくうつることができず、自由な時間に成したことがほぼ皆無ともなれば落ち込まざるを得ない。他人が自室にいる様子を24時間ずっと観察してみる、というのは叶わぬ夢として憧れるものの一つですね。『ディスコミュニケーション』にそういう話がありました。確か一段とフェティシズム全開な回でしたよね。