供養

 ある朝、滝本泉が何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が薄い毛布の上でうさぎ部の部長の姿に変わっていることに気が付いた。パジャマを含め、髪の毛からでべそ、爪先まで全てが変わっていた。鏡を見た訳ではないが、泉は何となく直観ですぐに解った。寝る前にタイマーをセットし忘れていたため、冷房は一晩中ついたままだった。部屋は不健康な冷気で満たされている。カーテンの隙間から射す朝日がダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いていた。いつもの泉ならば肌寒いのですぐにでも温かいシャワーを浴びに行くところだが、今日の泉はうさぎ部の部長である。お世辞にも筋肉質とは言えない肥満体をしたうさぎ部の部長となった泉は寒気を全く感じなかった。これはありがたい。一瞬そう思いかけたが、頭を振って泉は慌てて打ち消した。「そんな訳あるか」。いつまでも寝転がってはいられない。泉はベッドから降り、伸びをする。身体の重心が違うからだろう、泉はよろけてしまった。おっとっと、とそのまま部屋を出て、泉は洗面所に向かった。幸いにも両親は既に出勤しており、家には誰もいない。もしも今の泉を親が見たらきっと勘違いをして、母親は暫定的彼氏の品定めを、父親はついに娘も……と感慨深げに肯き、泉にとってはとてもやっかいな事態になっていただろう。まず始めに、泉は歯を磨きがてら、鏡に映るうさぎ部の部長の顔をまじまじと見た。泉は今までうさぎ部の部長の顔をじっくりと眺めたことはなかったので、これを機に従来の評価を改める可能性がないではなかったのだが、当然のように不細工だという認識を盤石にするだけだった。不揃いのパーツに処理のされていない眉、そして坊主頭。まるでジャガイモだ。うさぎにとって有害な野菜であるジャガイモに似ていることについて、うさぎ部の部長の彼は一体何を思うのだろう。泉がそんな彼に唯一感心したのは、肌がこんにゃくのようにてかてかしていることだった。人間、一つくらいは美点を備えているものだ。それが彼の場合は美肌だったのだ。次に泉は朝シャワーをすることにした。うさぎ部の部長の身体に興味が湧いたからである。パジャマ、下着を脱ぎ、浴室の鏡の前に立ってみた。肉塊のようなうさぎ部の部長の全裸姿を見て、泉は泣き出したくなった。まるで獲った魚を横領される鵜飼いの鵜のような気持である。今まで端正に育ててきた我が身体を掠め取られてしまったのだから。ぶよぶよの身体をぬるめのシャワーで一撫でし、下着のまま部屋に戻ると困ったことに気が付いた。今の自分に合うサイズの服を、泉は所有していない。だがすぐに解決策は見つかった。箪笥を漁り、父親のジョギングウェアを身に付けた。少しきつめだが、支障が出るほどではない。リビングで泉は朝食を摂った。窓の外からはまだ午前中だと言うのに、蝉の大合唱がサンプリング音源のようにいつまでも聞こえる。今日も暑くなるんだろうな。ましてやこの身体だ、熱中症に気を付けないと。テレビの画面にはいつもと変わらない朝の情報番組が流れていた。部屋に戻ると、泉はようやく事態の深刻さについて思い至った。標準的な人間と比べるとやや反応が遅めだが、特別遅いと言うほどではない。そもそも自分は何故不条理文学のようなシチュエーションに陥ってしまったのか。いや、不条理なのだとしたら理由などない。これは確率の問題で、自分は現代社会の抱える何かしらの問題の象徴として不運にも犠牲者に選ばれたのかもしれない。しかしそうだとして何の慰めにもならないし達観出来るほど自分は老いていない。最も建設的な頭の使い方は元の姿に戻る方法を探ることだ。しかし泉には取っ掛かりとなる事柄が一つも思いつかなかった。このまま部屋にとどまっていても事態は展開しない。それに第一、今は夏休みなのだ。外に出よう。それ以外の選択肢を泉は思い付かなかった。麦茶の入った水筒を肩に掛ける。父親のサンダルを借り、泉は家を出た。自慢みたいに思われるとやだから心でそっとつぶやくにとどめておくけど、わたしはまがりなりにも推薦で学級委員に選ばれただけあって、小学生の平均的なそれと比べてはるかに要領がいいという自負がある。おまけに実際家だし行動もてきぱきしてる。電光石火。ところがいわゆる芸術的な活動にはとんと向いていないらしくて、絵や音楽にもまったく興味がない。おそらく左脳ばかりが発達しているということなのだろうけれど、そのせいで頭の左右で大きさが違うんじゃないかというのが最近のわたしの心配ごと。地球に来て眠る喜びを知った私がその日目覚めたのは正午のことだった。硝子戸から差し込む日光は超新星爆発のように眩しく、新しい一日のスタートに出遅れたことを否が応でも自覚させられた。季節は冬で、暖房設備のないこの部屋はシャボン玉が凍るほどの極寒である。それは南中時刻の今なおそうだ。自分が居候という卑しい身分でさえなければ大家のおばさんを火にくべて暖をとるのになどと思いつつ、鼻づらが冷えていることに気がついたので素粒子タキオンにも劣らぬスピードで蒲団に首を引っこめたところ若干の時間遡行が発生してしまったらしく、蒲団から顔を出すと電波時計が午前七時を示していた。「これはしめしめ」そう言って私が上半身を起こしたのと時を同じくしてスッと襖を開く者があった。この家の娘さんである。「先生、そろそろ起きてください。って、あら」よほど想定外のことであったのだろう。娘さんはインスマス面のような間抜け顔を見せ、「先生、起きてらっしゃったの」「ウム」と私は大きく頷いた。見れば彼女、既に制服を着用しており、早朝だと言うのに溢れんばかりの生命力を身に纏っている。「精が出ることだ、感心感心」と私は古き良き日本男児風に娘さんを褒め称えた。「あっぱれ!」「先生、それはセクハラですよ」と白い息を吐いて彼女はこちらを睨むが何か勘違いしているようだ。地球人は言語を介したコミュニケーションには限界があるということを潔く認めてさっさと新しいコミュニケーションツールを開発すべきであろう。娘さんは齢十六の女学生で、この家から徒歩二十分の立地に位置する女子校に毎朝飽きもせず通学している。そんな彼女の行動様式は私のそれとはかなり異なり、一例を挙げるとすれば起床時間が数時間違う。そのため娘さんが毎朝甲斐甲斐しくも私を起こしに来てくれるのだが、未だ嘗て功を奏したことがない。「朝に先生のお顔を見るなんて久方ぶりですわ。昼間とは少々顔の造りが違うんですのね」娘さんは冗談めかして言ったが図星である。私の身体は睡眠中は身体の維持が出来ず、毎朝々々顔を始めとして私の身体は一から再構成されるため、娘さんの仰る通り朝昼で身体に多少の差があるのは事実だが、私が宇宙人であることは最重要機密なので誤魔化すより他にない。「それはこちらの科白ですよ」「……私の顔はいつも同じです!」娘さんはすっかり機嫌を悪くし、「御飯出来てますから、早く来てくださいね」強い口調で言うと、スカートの裾を翻して部屋を出ていった。やれやれ、まったく年頃の娘というのは難しい。それにしても朝飯なぞ一体いつぶりであろう。提供されるブレックファストなるものの価格がいくらなのかは存じないが、人件費を差し引いても三文以上の得をしたのは確実だ。顔も洗わず、寝起きのままどてら姿で階下に降りると、既に家人が全員揃っていた。「珍しいですわね、先生。おはようございます」とおばさんが言った。「おはようございます」「おはよう」と家長のおじさんが言った。「おはようございます」「髪くらい整えれば良かったのに」と娘さんが言った。「また別の機会にね」遅くもなければ早くもないけど筆箱と一限目の授業の教科書とノートを机の上に用意して皆川かなえとのお喋りを楽しむのにはちょうどいいくらいの時間の余裕があるタイミングに今日も登校することができたことに満足感を覚えつつ僕は自分の席についた。一限目に提出する予定の英語のプリントを広げて皆川はうんうん唸っており、僕も彼女に声を掛けることはせず鞄から筆箱と一限目の授業の教科書とノートと筆箱を取り出して、そろそろかと思った頃に案の定皆川はプリントから顔を上げて困窮した表情を見せてきたので彼女にさも今気づいたかのようなふりをして皆川に顔を向けた。「ねーえ、夜見坂」と皆川かなえが声を震わせて懇願した。「宿題見せてえ」「えっ」というのは僕の悪い口癖で、口に出すたびに直さなくては直さなくてはと思っているのだけど直らないからストレスがたまる一方だ。「また?」「うん」皆川は手を合わせ、頭を下げて懇願した。「うん。まただけど、まただけど」「まったくしょうがないな」という僕の返答はいかにも茶番くさく、というのも僕には皆川の頼みを拒む理由なんてひとつもないからで。「先生が来るまでに写しちゃえよ」「本当にありがとう」と言うとたちまち破顔して皆川はこちらの鞄をむしり取り、ガサゴソ漁ってプリントを発掘した。「すぐ終わるから」そう宣言すると皆川は一心不乱にシャープペンを動かし始めた。真面目にやっても十五分程度で終わる分量の宿題だから。今のところまだ何でもない僕は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない――という認識と同時に世界が構築される。今は八月上旬の夏休み、教室に一番乗りした僕は汗ばみながら一時間後に始まる夏期強化講習の予習をしていた。今のところまだ何でもない私は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない――という彼女の認識と同時に世界が構築される。「あ、渡会さん。ちょうど良かったです!」BOXの扉を開けた途端に彼女――渡会みほの目が眩んだのは言うまでもなく室内灯が眩しかったからではない。昼なお薄暗く薄汚いBOXに刺激を与えるほどの強い光源などあるはずがないからだ。「ああ峯岸か」と言って渡会は扉を閉めた。BOXに来て正解だったと渡会は思った。そのままこれまた薄汚いテーブルに向かい、机上に置かれたサークルの連絡ノートを手に取る。「どうしたの? 私に何か用?」渡会の胸は春(スプリング)らしく弾んでいた。峯岸ゆたかは推理小説研究会に所属する渡会の三つ下の後輩であり、ロングポニーテールに、人なつっこそうな黒い瞳と整った小さな鼻、淡いピンクの口元が愛らしく、笑顔がよく似合う。胸にAQUOIBONISMEとプリントされた白のTシャツにフレアジーンズをコーディネイトし、チョコレート色のデカバッグを肩にかけている。渡会にとって彼女はこのサークルにおける太陽であり、またオアシスだ。彼女と会話を交わすことが渡会の不毛な生活に一体どれだけの潤いをもたらしていることだろうか。そんな峯岸が渡会に用事があるというのだ。摩耗するような日々を過ごすうちに感情に乏しくなった渡会の心が躍るのも無理からぬことである。「ええ、そうなんです。BOXに来てもらおうと、ちょうどメールを送ろうかな、と思っていたところでした」「ふうん?」と返事をしつつ、渡会は労役に勤しむ奴隷のように無表情な顔でノートを眺めていた。渡会が歓喜の念をおくびにも出さず、また峯岸に顔を向けないのは、端的に言ってしまえば照れ隠しからである。若さの旬が過ぎて赤色巨星のように余生を過ごすだけの存在になった渡会にも恥じらいの気持ちは残っており、ともすれば愛しの後輩の顔を拝むだけで顔の筋肉が弛緩してしまいそうな己を律しているのであった。溝を伝って流れ落ちた汚水の掃き溜めのような我がサークルに何故琥珀色の蒸留酒のように見目麗しい峯岸が在籍しているのか。渡会は彼女に入会した理由を幾度か尋ねた。しかし峯岸は決まって曖昧に首を振るだけで、答えを引き出すことに成功した試しはない。そのたびに胸騒ぎを覚える渡会だったが、首を振った後に「大丈夫ですよ」とでも言いたげに微笑む峯岸を見るうちに、万事がうまくいきそうな気持ちになるのだから渡会は単純だとしか言いようがないだろう。連絡ノートから目線を外し、峯岸の背後を回って渡会は彼女の真向いの席に腰を落ち着けた。断捨離しても一切後悔をしないであろうガラクタで埋まったテーブルから視線を上げて目に入った峯岸の姿は相も変わらず美しかった。文字通り箱入り娘であり、※は大学の図書館で居眠りをしていた。彼は読書をしていたのだが、昨晩の夜更かしがたたり、瞼の重みに耐えられなくなったのだ。その本があまりにも読みにくく、また興味を惹かない文章が続いていたせいでもある。問題なのは、※は眠りたいと全く思っていなかったことだ。彼は本が読みたくてたまらないのだ。いくら退屈だとは言え数日後に控えた読書会の課題本だ。これを読まずしては次の本に進めない。何人たりとも僕の読書を邪魔する者は許さん。しかし心と体の不一致は何物にもまして確かなことであり、彼は消極的な態度でありながらもとにかく居眠りをしていた。突っ伏さずに元の姿勢を保ったまま。夢を見ないからと言って深い訳でもなく、いつでも覚醒の出来る浅い睡眠だった。だから※は肩をたたかれるとすぐに目を覚ました。びくっ、と肩を震わせて、何事もなかったかのように読書を再開した。時計を見るとおよそ二十分のあいだ、居眠りしていたことが解る。その間ずっと同じページを行ったり来たりしていたようだが、一文字も頭に入っていない。無駄なことをしたもんだ。※はそのページをもう一度最初から読み直そうとした。しかし集中が出来ない。重要なことを忘れているような気がして、はて何だろうかと頭の片隅で考えながらぼうっとしていたら、催促をされるようにもう一度肩をたたかれた。ポンポン。なるほど。僕はさっき肩を叩かれたのだ。若干の期待を込めて振り返ると、峯岸ちひろは友人たちと絶交する決意を固めた。片手の指に収まるほどの友人たちには何の恨みもなく、強いて言えば彼女らがあまりにも愚かだから自分までもがクズになったということくらいか。人の性格や振る舞いは環境によって形成されるというようなことはよく言われることであり、「吉田さん」峯岸ちひろが言った。「おいおいどうしたんだよクソミネ」吉田さおりは怪訝な顔をした。「ヨシダサンって何だよ、あたしのこと?」「ええ、そう。あなたのことよ。ちょっとお時間よろしいかしら?」この瞬間、鳥肌が吉田さおりの全身を余すところなく覆った。これに付随してわずかに失禁もした。「気持ち悪。なあ、クソミネよう」と言って吉田は映りの悪いアナログテレビに対するのと同様に峯岸の頭を強くはたいた。「別にいいけどよ」「渡会さん」「何」「渡会さんにはこれから一世一代の頼み事をするけど、何も訊かずにうんとだけ答えてほしい」「それは話の内容にもよりますね。返事は保留ということで」「では」ここで渡会、胸をときめかせる。何を期待していたかは説明するだけ野暮だろう。「僕と絶交して欲しい」「つまり?」「もちろんこちらから話し掛けることもないし、渡会さんからも話し掛けてこないでほしい」じわっと渡会の目に涙が浮かぶ。「ひ、ひどい」プツン。という音がした。僕は目をつむった。それはほんの一瞬のことだったが、意識が一瞬途切れたような、妙な不連続性を感じた。もちろん時間は連続しており目を開けても風景は変わらず、ここは学校の二階の空き教室で僕は椅子に座っていた。教室には僕の他には誰もいない。いや、生身の人間に限っていうと確かに僕一人なのだが、この場合は事情が少々ややこしい。目の前には、僕が先ほど殺したばかりであるところの憎き友人・三井が何食わぬ顔をして立っていたからだ。いわゆる幽霊というやつである。「よお」と三井は声を掛けてきた。「俺はお前に殺された記憶があるんだが、こりゃどういうわけだ? 見てみろこの頑強な身体を。殺害未遂か?」「いや、死亡を確認した。間違いなくきみは死んでいる。僕に手落ちはない」僕は無感動に答える。「きみは幽霊になったんだよ」「そういうことか」三井も落胆せずに言う。「残念だ」