現実逃避小説―Escape from Reality

「何かたりぃなあ」

 目の前に座るミカが言葉を発したようなので、レイコは右耳からイヤホンを抜いた。ちなみに現在、サザンオールスターズ『さくら』収録の「LOVE AFFAIR」を再生中である。ボーカルの入った曲は勉強に不適なのではないかという意見があるのは解るが、反対にインストゥルメンタルの方が集中を妨げられるということもある。例えば映画のサントラ。曲の流れるシーンを思い出してしばし感慨にふけるなんてことは珍しくない。一方、サザンの曲の歌詞にほとんど意味がなく、それに第一聞き取れないため、心地の良いバックグラウンドミュージックとしてはふさわしいといえるのではなかろうか。

「ほら、手を止めない。あんた全然進んでないじゃないの。レジュメ、まだ半分以上あるんだから」

「レイコはいいなぁ、優等生で。もうレジュメ終わって過去問解いてるんじゃんか」

 二人はスターバックスコーヒー京都三条大橋店にて期末試験の勉強をしている最中である。時刻は現在午後四時。先ほど経営史の試験を受けて単位取得を確信した二人は大学から自転車で川端通りをまっすぐに南下して、三条京阪駅の前に駐輪したその足で翌日の試験勉強のためにスタバに入ったのだ。二人がそれぞれ何を注文したかについておしゃれでかつ都会的な描写を施したいところなのだが筆者は残念ながらそういった知識や文化を持ち合わせておらず、勝手なイメージで申し訳ないが「ニューヨーカー」に載るような小説を書くことは出来ない。余談だが筆者のスタバ体験は決して多いわけではないが皆無というほどでもない。高校時代、友人と勉強と称してはスタバに寄って無為な時間を過ごしたものである。当時は店内に入るとまず席を確保し、友人と交替して注文に行った。何度行ってもメニューを覚えることが出来ず、また個々の商品の差異を知らなかったため、比較的商品イメージを容易に想像出来るココアなどを注文したものだなどと書くと今は成長した感が出るがそんなことはなく今も同様である。そして注文を終えると狭い座席に座って参考書を開く。周りにはビジネスマンやOL、あとはおしゃれなおばさんがいる中で、我々は学ランである。浮くこと甚だしいが、厚顔無恥は高校生の特権である。何のためらいもなく消しカスを床に振り払い、ココアを飲み終わって後も何時間か居座った。そしてもちろんその最中ノンストップで勉強するかというとそんなこともなく隣接したTSUTAYAに行っては小説の棚を眺める。しかし買うことは稀だった。お小遣いが少なかったのではなくむしろ受験勉強で忙しかったためにお金は有り余っていた、と書いてみたがいやそうでもないかもしれない。あまり大金を持っていた覚えはないからだ。だがそんなことはどうでもよく、ここで言いたいのは、受験時代は「読書をするものは馬鹿だ」という友人に裏切られて自殺した某氏の言いそうなようなことを筆者は固く信じていたため(実際、受験勉強中に読書をする受験生は、その他の期間に受ける評価とは逆に大馬鹿者であろう)、なかなか本に手を出すことが出来なかった。もっとも小説の代わりに漫画に手を出したのは我ながら愚かだとしか言えないが。My foolish heart. では本屋に寄って何が楽しいのかというと「受験が終わったらこの本も、あの本も絶対に読むんだ!」と心をときめかせて瞳を輝かせ志を確かにする瞬間が心を高ぶらせるのだ。しかし買わないことで欲求不満はたまるもので、やり場のないエネルギーは筆者を鬱状態に向かわせた。だからたまに、というか実際は結構な頻度で小説を購入していた。では今までの話は何だったのかとかそういうことは言わないで欲しい。で、この頃に買っていた本といえば主にハヤカワ文庫で出ているカーの珍しい小説だった。『死が二人を分かつまで』等、ネットショップならば簡単に購入出来るものの町の本屋ではなかなかに入手しづらい小説をいくつか買った。思えば積読本が増えたのはこの時期だった。さて、再びレイコとミカの物語に戻ろう。

「だってさ」レイコはミカの揶揄に言い返した。「経済史2って論述問題が出るんだよ? わたし、論述なんて入試以来書いてないし、マジやばいのよ」

「それはこっちも同じだって。もういいじゃん、単位なんてさ。どうせあたしたち留年なんてしないよー。だってパラ経だよ?」

「そう言っていると留年しちゃいそうで怖いのよ。それに、今のうちに単位とって、来年遊びまくるんだ」

「レイコって去年何単位取ったっけ?」

「48」

「すっご。楽勝じゃん」

「ミカは?」

「……32」ミカは注文した何らかの飲み物に口をつける。「最初だから遊びまくろーと思ってたら、さ」

「まー何とかなるよ!」と気休めをレイコは言う。早く勉強を再開したいという意思を示すため、イヤホンに手を掛けた。現在「私の世紀末カルテ」が再生中。基本的に桑田のギターとハーモニカだけで構成されている楽曲であるが、桑田は1998年の時点で『“ソロの曲でしょ?”って言われそうだけど、俺もサザンの1人。そこに境界線は無い』と語っていた。演奏時間は6分42秒(アルバムバージョンでは6分43秒)で、現時点でサザン名義の曲としては3番目に長い。以上、Wikipediaからの引用である。

「まあ、考えようによっては、あたしはまだ真面目な方だよね」ミカは視線をレイコから外し、こちらに向けた。

「だってさ、このAWOって奴、深夜の1時になってもまだ経済史2の勉強に一切手を付けてないんだもんね。それに比べれば手を付けてるだけあたしのほうが偉いよね」

「そうそう」レイコはイヤホンを装着した。そのためミカの声はくぐもってよく聞き取れないが、言いたいだろうことは解るので頷いた。「今だって試験勉強から現実逃避して、こんな回想織り交ぜたバカバカしい小説書いてるし、もう救いようがないよね」

「こいつ、単位とるつもりあるのかな。あたしと同じだけしか単位取ってないし、全く余裕なんてないと思うけど」

「どうするあてもないと思う。たぶん、この記事を書き終えたらTwitterをしばらくチェックして、その後レジュメに一通り目を通しはするはず。でも、ところどころ空欄があるから集中が持続しないでしょうね。で、たぶん終わるのが4時半頃。お昼近くまで寝るのが目に浮かぶようね」

「明日の試験は三限だけど、寝過ごしちゃわないかな」

「そうなったらそうなったで潔く諦めるでしょうね。元々取れる単位じゃなかったなんて言い訳して」

「本当、救いようがないなー」

 今、読者が疑問に思っていることはおそらく次のことだろう。音楽を聴いているはずのレイコはどうやってミカと会話しているのか? 筆者にも解らない。ただ答えは風の中で吹かれているということだ。