最近はひたすら脳内で舞台設定を整えようと色々とこねくり回しています。今まで建築について何も考えたこともないのに建物の構造(館ミステリではない)とか町の地図とか。舞台となる場所の歴史や地理は、この前の段階にある程度決めたのでいいんですが。もっとも自分の文章力筆力でこれらをちゃんと書けるのかという心配が第一にあるのですがまだあまり気にしないようにしておきます。全く手つかずの部分と言えば、いわゆるドグマみたいなもので、物語に都合のいいように大まかなところは決めてあるのですが、これはどうすればいいのか。オウム真理教的にパッチワークで作るというのが一番現実的な方法です。で、物語というかプロットはとりあえず雑な形で立ててあり、今後詰めていく、という感じ。こういう舞台のミステリだと普通は特殊設定もののミステリになりやすいですが、今回は別にそういうわけではないので(今のところは)、物語のとっかかりがなくて難しいです。解決策として、現在用意してある物語にさらにもう一つ別の筋を足すことでどうにかならないか。今回はキャラクターの設定だけは先に決めていたので(これはもうかなり初期の頃から)、このキャラたちが動いてくれるような物語を用意すべきなのでしょうし今年の5月の時点でも次の小説はキャラクターが動くものにしようと考えていたのに、舞台の方に集中しすぎて疎かになっていました。その点石川博品は重い設定であってもライトノベルをやれているのがすごいのですが。流石にそろそろ参考作品は読まなくてもいいかなとも思うのですが、資料はまだまだいっぱいあって。本当は再読したい小説もたくさんあるのに。どうしたものか。

島メモ

孤島ミステリは、無人島なのかそうでないのか、また洋館のあるものとそうでないものという風に分類される。つまり孤島モノというサブジャンルはかなり複合的なものなのだ。

 

因習の残る島の話題になると必ず横溝的な、という枕詞が使われるが、金田一もので島と言えば『獄門島』『悪霊島』くらい。島、と言うよりは閉鎖的な土地であることに皆反応しているようだ。だけど山間の村と島ではだいぶ違うと思うのだが。それだけ『獄門島』の印象が強いのか。

 

とまあ島と村は同じジャンルだという扱いを受けるわけだが、微妙にツボが違う気がする。

 

ところでおどろおどろしげな孤島が舞台の小説は大抵ミステリをやるが、別にミステリじゃなくてもいいのでは?

 

素朴な疑問。島モノを書く人はどんな準備をしているのか。先行作品はどれだけ読んでいるのか。まあ作品の目論見によって資料は違ってくるだろうが。そう言えば佐藤亜紀が『戦争の法』を書く際に独立モノの先行作品をかなり意識したそうで、例えば『吉里吉里人』も意識していたそうだが、このジャンルってそんなに作品あるの?

おかしな午前

偏見シリーズ。藤井フミヤのことは全然知らないが、僕がバイトをしているお店に来たらきっと嫌な客にカテゴライズされるタイプの人間です。20世紀少年の映画で小学校の同窓会の幹事役として藤井フミヤが出演しているのですが、まさに僕の嫌いな人種の役を実にうまく演じていて、つまり演技力があるということなのかもしれませんが、あまりにもはまり役だったのでどうしても悪意のあるキャスティングにしか思えませんでした。しかしこれも偏見ですが、仮に悪意があったのだとしてもおそらくフミヤはその悪意に気がつかないでしょう。

 

 

サザン・桑田関連のこと。

 

 

そこそこ解っているな、と。ある一定の年代の方の洞察眼を測る物差しとして、桑田佳祐という人物をどう捉えているかを見るのは経験上かなり有効だと思います。このツイートから殊能さんは信頼ができる人だと解りますが、

 

 

これは減点ポイントです。桑田ソロでは基本的にそもそもサザンの歌を歌わないので。

もうひとつ。

f:id:owaowakun:20180826150628p:plain

意外な。

別の話。身内の恥を晒すわけですが、中学一年生の頃、僕の勉強を父親が見てくれたことがありました。英語です。まだ一学期が始まって間もないころだったのでしょう、教科書の数詞一覧のページを開いていました。「thousand」を見て、父親が放った言葉。「thousand……サゥザンドゥ。サザンオールスターズのサザンはここから取ったのかな」。

当時の僕はサザンのことをよく知らなかったので「ふーん」と聞き流しましたが。いやあ恐ろしい父親を持ったものです。流石に今は「southern」という単語を覚えたと思いますが、それにしても。このエピソードにはいくつもの問題点があるのですが、おそらく今になってこのことを話しても父親は知らんぷりを決め込むことでしょう。

 

 

実家にいた頃は、毎週日曜日の夜はイッテQを伴侶として夕御飯を食べていました。ほぼ毎週欠かさずといった感じで、僕は視力が悪いためテレビをあまり見ないで考え事をしながら食事をすることが多かったのですが(そもそもバラエティ番組や野球に興味がなかったからというのも大きいですが)、イッテQは比較的楽しんで見ていた気がします。もっともマンネリ化は否めなく、僕がいない合間に家族も徐々に飽きがきているようですが。閑話休題。今年の春頃にウッチャンナンチャン(と言うか内村光良)にハマって以来ウッチャンナンチャンの動画を漁る生活を続けており、たまにイッテQの動画を見ることもあります。置物状態のウッチャンがあまり好きではないので好んで見るわけではないのですが。で、動画の中には以前テレビで見た覚えのある動画もあるんですが、明らかに以前とは鑑賞の仕方が違うんですね。以前は番組の作り出す「物語」に笑っていたため、キャラクター性を強調する手越やイモト以外の出演者への愛着度はほぼほぼ変化しませんでした。一方でウッチャンナンチャンを履修しウンナンと仲のいい芸能人にもそれなりに興味を持つようになってから見ると、番組の意図した笑いではなく芸能人そのものに注目してしまい、ひいては番組全体の構成にまで目が行くようになってくるわけです。格好つけた言い方をすると「消費」とは別のフェイズに移行したというわけです。これは僕のテレビ人生の中で初めての経験なのでこうして文章にしたためたわけですが、これは当たり前の鑑賞なんですかね。ちなみにイッテQは芸能人のキャラクター性にそこまで興味がなくても楽しめる番組だと思いますが、キャラクターだけで成立したウリナリは、芸能人が好きでないとまったく楽しめないでしょう。キャラクターとしての人気を確立できたであろうウリナリメンバーはその後も活躍していますが、そうでないメンバーはイマイチ、ってことが多いですね。個人的には藤崎奈々子はそんなに嫌いではないんですが。そう言えばたまたま見た笑う犬に藤崎がゲストで登場していたんですが、ウリナリでは役割が与えられていたから良かったものの、笑う犬には既に藤崎の居場所がなく、特に個性のないタレントとして仕事をこなしていたので、なんか悲しかったですね。昔のバラエティ番組の動画を見ていると、現在との比較をついしてしまうので、悲しくなってしまうことが多いです。

 

 

今はウッチャンナンチャンとサザンと小学校の思い出話をしている時が一番楽しいです。次点で宗教。小説の話は……まあ相手によりますよね。

 

 

今までは大衆的でかつくだらないものに全然ハマることができず、そのせいで小中高の間は話の輪に加われないことが多々あったのですが、ここ最近、ようやくハマれるようになってきました。ここで言うくだらない、とは、「確かに楽しい(面白い)ことは認めるが、何の足しにもならない、蓄積していくことのない、ただ消費するだけのもの」程度の意味です。で、そのくだらないものから何らかの真理を引き出すのが最終目標です。この調子でいけば小学校以来ひたすらに避けてきた野球にハマるのも夢ではありません。

 

 

売春島と呼ばれる渡鹿野島に行ってきました。天理市に続いての取材旅行です。ルポが面白いのでお勧めです。この本を読んでも相当寂れているのだろうことは伝わってきますが、実際に行ってみると予想以上に寂れていることが解ります。スナックとホテル、飲食店以外何もないんですよ。廃墟ばかり。これだけで島の生活が成り立っていることに驚きです。本当に昔は売春に特化した島だったんですね。ルポの中では大型ホテルとして現在一強状態、と紹介されていた○○○○荘にしても、ビーチには家族が一組しかいなかったし、実際は相当苦戦していると思います。とは言え他の民宿旅館と比べればマシですが。

取材旅行も済んだので、あとは資料となる本(小説や新書など)をいくつか読んだら小説を書き始めたいです。舞台や大まかなキャラクター設定は決めてあるのですが肝心のストーリーがない状態です。小説のスタイルも深くは考えていません。材料的に長編にできると思うのですが、とりあえず今回はその予行練習として短編もしくは中編。ただそれだと材料を活かしきれない気がするので、そこが悩みどころ。

 

 

ポケビ復活

24時間テレビポケットビスケッツが一夜だけ復活しました。僕は今年の春頃、ウリナリにハマって動画をたくさん見ました(その後内Pに移行したわけですが)。その中には当然ポケビの動画も含まれており、署名運動なども追体験したわけで、こういった企画ではありがちの"復活"がポケビに関しては(千秋が単独でポケビの歌を歌うことはあったにしろ)今まで一度もなかったそうなので、今回のことは素直に嬉しいです。しかし一方で一抹のさみしさを覚えてしまうのは、過去の栄光をまるで無視した形で現役として活動しているから格好いいのであり、こうして過去を振り返るように"復活"するのを見ると彼らもいよいよ折り返し地点に入ったのだという気がしてしまうからです。そう言えばウッチャン(TERU)には語尾に「ダニ」をつけたまま話していて欲しかったです。

ポケビの復活を知らされていなかった南原の反応もとても良かったですね。最初は怪訝そうに凝視、状況を把握して喜びを抑えるも、とうとう口ずさみ始めてしまう南原。いや個人的な好き嫌いはありますが、南原はとてもいい人だと思いますよ。ウッチャンナンチャンがコンビで揃うことも最近ではレアなわけで、そういった意味でも貴重です。ウッチャンが南原相手だと口数が少なくなるのも良いですね。南原がウッチャンと久しぶりに会って嬉しそうなのに対してウッチャンはそうでもなさそうで、すぐにテレビ用の演技に入ってしまうところも良い。しかしウンナンファンにはおなじみの出川が今回に限って言えば邪魔であるのは、出川がウリナリメンバーではないからでしょう。ポケビの復活を事前に友人であるウッチャン・千秋・ウド鈴木から知らされていなかったと出川は言っていますが、ウリナリメンバーではない出川に伝える筋合いがないわけです。南原に伝えなかったのはサプライズの意図があったからだと思いますが。他の見どころとしては嬉しそうにしている水卜ちゃんで、ポケビの演奏が終わると南原の背中を押してウッチャンと一刻も早く引き合わせようとするところは微笑ましいものがありました。

ブラビの復活は無理でしょうね。ポケビのように現在でも全員が揃うことが珍しくない3人と違って、ビビアンはそこまでお手軽に呼び出せないでしょう。ビビアン・スーが一人で歌っているところは見たことがありますが、アレンジを随分と変えたもので、こういうのは悲しいですね。そう言えばビビアンはネットで怪しげな広告に出ていますね。

余談ですがポケビ最終章の動画はまだ見ていません。加えてウリナリ後期の動画も見ていません。僕は内Pが好きですが、内Pメンバーである大竹やゴルゴが出演するウリナリは、ウリナリという感じがしないので嫌いです。

がらくた

Twitterがない時代のテキストサイトに憧れがあり、これは記事形式ではなく日記形式で文章を書くほうが自分の性には合うってことだと思います。ともかくこの記事は今まで下書き状態にしたまま放置した文章も混ぜたものだということは初めに説明しておきます。順番もあえてめちゃくちゃにしています。

 

とあるSF評論家が半年ほど前に某カメSF作家に突っかかった事件があり、ここで目についた口の汚さからその評論家は僕のブラックリストに入っているのですが、ここ最近、その評論家に対する好意的な評判を見かけ、確かに人格的に問題はあるかもしれないし論理的に雑なところはある気がするもののSF評論の主張自体は正当なものだったのではないかとトゥギャッターまとめを見ていたらそのひどさを再確認できました。おそらく評論を軽んじないでほしいというしごく当たり前のことを言いたいのでしょうけどその程度の主張が正しいからと言って特に意味もなく、思い出の中で評論家を美化していたことに気がつきました。

 

とてもむかむかしているんですがそれを理屈で説明できる気がしないし言葉にする必要もいまいち感じられないのでそのまま放置します。普段感じる怒りは外部の事象に対する好き嫌いから生じるのですが、今回は自分も含めた状況を作った人間に対する怒りで、怒りとしてはむしろ健全なものだという印象があります。怒ってないと悲しくなってしまうので怒りを持続させているのでは、とも思いますが。ここで「言葉にならぬ哀しみよ」という言葉が浮かぶのですがこれは桑田佳祐の「夏の日の少年」という曲の歌詞でして、最近は「Do you know how many tears I have cried? No,no,no.」とよく脳内で歌っているのですが、この曲は芸能IQの高い桑田自身の苦悩を歌っていると思われます。同様の苦悩は「DIRTY OLD MAN 〜さらば夏よ〜」でも歌われていますが、こういう曲があるのに素知らぬ顔で「壮年JUMP」とか歌っているのを見ると歯がゆくなります。

 

涼宮ハルヒの驚愕』初回限定版特製小冊子「涼宮ハルヒの秘話」には谷川流書き下ろしの短編「Rainy Day」が収録されています。キョンがまだ中学三年生の頃のお話で、梅雨の時期に佐々木という同級生女子と学校のプールで会話したり、塾に行く途中に雨に降られてびしょ濡れになった、という思い出をキョンが回想するという体裁の短編。まあエモいです。で、梅雨の時期に読めなかったので読み返したのですが、

 

「あ。佐々木お姉ちゃん。遊びに来てくれたのーぉ?」

「残念ながら」と言いつつ佐々木は楽しげに微笑み、「学校が終わってもまだこれから勉強だよ。いつかまともな遊びをしてあげたいところですね」

「ふぅん」

 

という、キョンの妹と佐々木の会話の部分を読み、自分はこの「いつかまともな遊びをしてあげたいところですね」という言い方に強く影響されていたことに気がつきました。「いつかまともな遊びをしてあげたいところだね」なら解るのですが、「ですね」となると誰へ向けた言葉なのか解らなくなる。その違和感が面白い。

 

どこの馬の骨かもわからない人間の浅はかな発言が炎上すること自体はまあ他人事なのでいいにしても、そこから何故建設的でない議論が発生するのかが全く理解できない。その発言に注意を払う必要を感じない。その発言に何かしらの真実が含まれていたとしても、あえて反論する価値もないだろうに、周囲の人間は積極的に似たり寄ったりのコメントをする。放っておけばいいのに、どうしてだろう。ところで僕は自身に対して納得のいかないコメントをされると根に持つタイプなのですが、その人のその時の主張と、昨今のネット議論での発言との間に矛盾を見つけると、猛烈に指摘したくなります。この感情の行き場がない。どうすればいいんだろう。

 

こんなに何もできない夏休みになるとは思いませんでした。出来事自体はたくさんあって、思い出に残るかどうかという観点からみれば確実に残るだろうし客観的には充実しているとも言えそうですが、その事実を言い訳にして能動的な行動にまったくうつることができず、自由な時間に成したことがほぼ皆無ともなれば落ち込まざるを得ない。他人が自室にいる様子を24時間ずっと観察してみる、というのは叶わぬ夢として憧れるものの一つですね。『ディスコミュニケーション』にそういう話がありました。確か一段とフェティシズム全開な回でしたよね。

人と会わない生活が続くので独り言

サザンオールスターズのベスト盤が出ました。2000年以降、サザンよりも桑田ソロの活動の方が活発で、セールスこそ安定しているもののサザンのヒット曲は「TSUNAMI」以降「君こそスターだ」くらいしかないと言われる状況(それなのにベスト盤未収録)。あとは「I AM YOUR SINGER」、「ピースとハイライト」といったご祝儀的シングルばかり。「蛍」「東京VICTORY」はぎりぎり浸透しつつあるのか。ともかく20年間のベスト盤という割に内容はそんなに濃くなく、あまり売れないだろうな、という印象。目玉は新曲3曲(プラス1曲)とアルバム未収録の4曲でしょうか。僕自身ファンですけど、2012年のソロのベストアルバムである「I LOVE YOU」ほど購買欲がそそられませんでした。あちらはオールタイムベストだということもありますが、新曲が多かったり、ボーナストラックが付属していたり、あとはテレビで昔の曲を結構歌っていたこともあります。今回は新曲ばかりの披露で、今のところ過去の曲は涙の海で抱かれたいとLOVE AFFAIRだけ。今までは懐メロ歌手化としないために過去の曲は歌わないようにしてきたのでしょうがベスト盤の時くらいは歌ってもいい気がするのですが。まあこれからもテレビに出るようなんでそれに期待。ところで新曲「壮年JUMP」のPV、ひどいですね。過去のPVを走馬灯のように流すシーンだけは""歴史""を感じ、良かったのですが。サザン・桑田ソロのPVを見ているとつらくなることが多いです。2009年以降の見ていてつらくなるPVをあげておきますと「幸せのラストダンス」「涙をぶっとばせ‼」「ヨシ子さん」「若い広場」「アロエ」「ピースとハイライト」「天国オン・ザ・ビーチ」。つらくなると言えばテレビに出た時のギャグもつらいですね。昔の映像を見ていても、確かに寒いことを言って(やって)すべるのはお家芸みたいなところがあるのですが、2009年以前は妙にふてぶてしいというか、人相も柄も悪いし、ぼそっとしたしゃべり方のせいもあると思いますが、まだアバンギャルドな風に見えるんですね。でもガン以降はめっきり痩せて、病気と震災が重なったせいもありますが妙にまじめになってしまい、ここで完全に大御所化。ギャグもドリフやダチョウ倶楽部的というか、桑田さん的には植木等なのでしょうが、ベッタベタなおやじギャグ、みなが笑わなくてはならない、みたいな雰囲気が作られて、とても居心地が悪い。笑いの質が明らかに変質しました。大御所にはなりたくないねという話です。大御所と言えばお笑い第三世代の方々も完全に大御所化し、硬直しましたね。ウッチャンナンチャンの内村と言えば昔はクールで人見知りで人に興味がなくて、みたいな人だったのに、最近だと芸能界一やさしい人みたいな扱いで(徳ちゃんとの結婚がこの変化を促進させたのだと思います)、これはたびたび思うことなのですが、人を「やさしい」とか「かっこいい」「美人」とか、プラスの言葉で持ち上げることは一見良いことに見えますが、それは人にレッテルを張って括ることに他ならなく、欠点などを含めて人の魅力は成立するというのに、悪い部分を一切目に入れないということは、理解を拒むことにほかなりません。大御所化というのも他者からの相対化のまなざしを完全遮断するということであり、長期的にはいじられキャラの方がお得だなあとか最近は思います。何の話をしてるんだ。

 

僕は所属するコミュニティの数が少ないため、数はともかく友人の属性が限られています。まあ遠回しな話はやめにすると高校の友人に会いたいという話です。大学になじむにつれ交流がだんだんと途絶えはじめ、現在ほとんどの相手は就活だとか(もう終わってるだろうが)で生活が忙しくなっていることが多く、今になって求めてもすでに遅く、これは自業自得です。会いたくて震えます。と言っても高校の頃の思い出話で花を咲かせたいわけでなく、むしろ大学生活の話をしたい。大学の人間よりも高校の人間との方ができる大学の話もあるのではないか、と思うので。こうなると申し訳なくなるのが今まで友人たちの大学の話を話半分に聞いてきたことで、思えば興味深いことも沢山話していたのではないか。とまあこういうわけで、このブログを見た同窓生がいたらそれとなく教えてください。ちなみに夏の高校の集まりには顔を出しません。会いたくもない人とも会わなくてはならないので。

 

ちかごろ母親から毎日LINEが来ます。内容がないものがほとんどですが、中身がある場合でもそれを口実にしていると思わせるもので、こうなったことの原因を予想するのですが、現在大学一年の弟が夜遊びばかりなので話し相手が父しかいなくてさみしい&暇だ、というのが主な原因で、第二の原因として、よその家庭と比べあまりにも息子の事情を把握していないことに今になって焦り始めた、というのが考えられます。まあそれはいいのですが、どうも母親と話すのに限らず、僕は継続的に(生活習慣の一部のように)、誰かと会話そのものが目的のLINEをするのが得意ではない気がします。LINEを連絡手段としてしか思っていない。ツイッターならオーケーだし、電話で話すのなら大丈夫なんですが(そう言えば高校の頃はLINEやSkypeの通話で何時間もつぶしたこともありましたね)。こういうこと書くとただでさえ少ない話し相手をさらに失う気もするんですが。

 

先日のコンパについて。天理教の話をたくさんできて楽しかったです。もともと会話の引き出しが少なかった僕ですが、今では小説と宗教の話しかできません。ところでコンパの話には後日談(「日」ではないですが)がありまして、やはり新宗教新宗教なんだな、という出来事がありました。貴重な体験でした。本当は某島にも行ってみたいのですが、さすがにそこまではできない。そろそろ別の宗教に目を向けなくては。